創業の地 ジュネーブに息づく哲学
ピクテの根幹にある「ジュネーブ精神」
現在も、ジュネーブに本社を置くピクテ。数多くの国際機関が置かれているジュネーブは、その歴史から「ジュネーブ精神」とも呼ばれる独立性と中立性によって知られています。
200年以上にわたって顧客からの信頼と共感を得てきたピクテの創造の精神も、その誕生の地ジュネーブの歴史と文化に深く関わるなかで培われてきました。
ジュネーブの歴史と文化に大きな影響を与えたのが、宗教改革者ジャン・カルヴァンの教えと啓蒙主義です。カトリック教会と決別しフランスを追放されたカルヴァンは、1536年にジュネーブに招かれ宗教改革を推し進めます。
1572年の聖バルテルミの虐殺後、カルヴァン派の本拠地であったジュネーブは、多くのユグノー教徒の難民を受け入れ、織物、宝石、時計、印刷などの新しい技術と産業を発展させていきました。
ジュネーブが国際的な独立性と中立性を確立出来たのは、地理的な位置に加え、そこに住む人々が独立性と勤勉さ、責任感というカルヴァンの厳格な教えを守ってきたからだと言われています。
ジュネーブ大学にある記念碑、左から2番目がカルヴァン
その後、カルヴァンによる宗教改革は、個人の責任を重視し、18世紀のジャン=ジャック・ルソーの啓蒙主義への道を開きました。
ジュネーブで生まれたルソーは、『人間不平等起源論』や『社会契約論』を著し、フランス革命の人権宣言に大きな影響を与えました。
ピクテ家は代々カルヴァン派思想の影響を強く受けており、独立性や中立性、義務感、自由主義、人道的博愛といった「ジュネーブ精神」の形成に貢献すると同時に、それを自らの倫理的原理としてきました。たとえば、ピクテ家の一人シャルル・ピクテ・ド・ロシュモンは、ジュネーブがスイスの州となった1815年のウィーン会議に代表として出席し、ジュネーブという都市、そしてスイスの中立性をヨーロッパの大国に承認させた人物として知られています。
カルヴァン主義 - 目利き力を支える責任意識
ピクテは創業以来、カルヴァン主義の教えを受け継ぎ、それは現在もなおパートナーや社員の企業活動や行動を特徴づけています。
カルヴァンは「天職に励めば、自分自身の救済を確信できる」と唱え、規律と責任を重んじました。
後にドイツの社会経済学者マックス・ウェーバーは、カルヴァン派の禁欲主義こそがプロテスタンティズムの職業倫理として、初期資本主義発展の原動力になったと説いています。
善行や富という形の成功は、美徳の産物とみなされ、救いのしるしとされました。貿易、金融、商業、熟練技術といった世俗的な報酬は、謙虚さ、公共の利益への貢献、貧しい人への配慮を伴っている限り、勤勉な労働の対価と考えられました。
こうした献身、善意、人格、忍耐といった資質こそがピクテの職業倫理として形成され、代々受け継がれることで、ピクテ独自の目利き力を支え続けてきました。
目利き力を支える責任意識とは、顧客のみならず、社会に対して、さらには未来に対しても責任感や義務感を持つことです。
そのためには粘り強く卓越性を追求し、職業倫理に基づいて行動し、顧客 や社会からの信頼と尊敬を獲得し続けなければなりません。
規律を重んじる精神は、ピクテの質素倹約の哲学にも表れています。
何事にも無理をすることなく、過度な目標を立てず、堅実で持続可能な経営を実践することが、結果的に顧客との長期的な信頼関係の基盤となっています。
ピクテにおけるフィランソロピー(社会貢献活動)や持続可能性を追求する経営的な思想は、宗教改革の中心にある「個人の責任感」から生まれたものであり、ピクテの創設者たちが吸収し、200年以上を経てもなお脈々と受け継がれています。
“私が入社した頃、ピクテ銀行はとてもカルヴァン主義的だった。会議室ではパートナーのジャン=ピエール・デモールがいつも同じ場所に右足を置いていた。“絨毯はずっと同じものだったので、そこに穴が開いていた。”
ジャン=ピエール・トブラー(ピクテ社員 1965)
啓蒙主義 - 目利き力を支える「創造の精神」
ピクテの目利き力を支える、もう一つの思想的基盤が啓蒙主義の精神です。
合理的な思考で世界を捉えようとする啓蒙思想は、17世紀後半にイギリスやフランスで始まり、18世紀にはヨーロッパ思想の主流となっていきました。
ジュネーブはもともと印刷ビジネスの中心地でもあったこともあり、ルソーによって切り拓かれた啓蒙思想はカルヴァンの教え同様に、新しい科学的なアイデアを発信し、印刷という新しい伝達手段によって、普及していきました。
合理的な思考に基づく社会の発展を説いた啓蒙思想は、ヨーロッパに産業革命を起こし、資本主義を発展させました。『国富論』を書いたアダム・スミスも、スコットランド啓蒙思想家の一人でした。
アダム・スミスは個人が自由に利益を追求し、競争をすれば、社会全体の利益につながるという自由放任主義を説き、資本主義経済の基盤を築きました。しかし一方でアダム・スミスは、『道徳感情論』のなかで「必要な援助が、愛、謝意、友情、および尊敬にもとづいて互恵的に与えられている場合、その社会は繁栄するし、幸福である」と語っています。
アダム・スミスの自由放任主義は、カルヴァン主義とも通じる共感や相互理解という自発的な義務感に由来する道徳を前提にしているのです。
“面接では、“ピクテに入ることは聖職に就くようなものだ”と言われた”
レイモンド・ビアンキ(ピクテ社員 1965)
創造の精神 - 持続と成長の原動力
2010年から2016年にかけて、最高責任者のシニア・パートナーを務めたジャック・ドゥ・ソシュールは当時、ピクテの特徴を「215年前に始まった、創造そして起業の炎を、つねに新鮮なものにしておく能力にある」と言いました。
まさにこの創造の精神こそが、過去や現状に甘んじることのない成長を支え、ピクテの歴史を形成しています。
創業後間もなく、それまでの銀行ビジネスとは異なるベンチャー事業に着手したピクテは、1821年には早くもパリを拠点とする生命保険会社の代理店となり、さまざまな有価証券を取り扱うようになります。
1850年代にはジュネーブの城跡を取り壊してできた土地を活用するための会社に投資し、不動産開発に初めて乗り出します。
1850年代後半にはスイスだけでなく、ヨーロッパ、北米などグローバルな投資も開始します。
20世紀初頭にはメキシコの企業に投資するために設立されたファンドの経営権を取得し、ピクテの個人顧客による国際分散投資の手段を確立しています。
激動の20世紀とも言われる時代を生き抜いてきたのも、ピクテならではの創造の精神によるものです。
第二次世界大戦後も、外国資本の安全な避難先という、スイスのイメージを背景に、ピクテはサービスの質、投資アドバイス、多様な投資手法を重視し、プライベート・バンキング・サービスを多様化させました。
1980年代以降、ピクテのパートナーたちは、オフショアからオンショアへの移行、複雑な新規制への対応、高度化する顧客ニーズへの対応など、包括的な投資プラットフォームの構築など、着実な変革を進めていきました。
ピクテの社内においても、パートナー自身が投資家の役割を果たし、社内に新しいベンチャー活動の種をまき、機会と才能をマッチングさせ、社員に時間と自由を与えることで、創造の精神を培い継承しています。
コラム: ピクテ家に刻まれる“創造の精神”
ピクテ・ドゥ・ロシュモン像
ピクテ家の一人、ランシーに住む控えめな農学者だったシャルル・ピクテ・ドゥ・ロシュモン(Charles Pictet de Rochemont、1755-1824)は、交渉者としての才能と、その人脈により、国際政治において活躍する運命に導かれます。
彼がピクテ銀行の経営に直接関わることはありませんでしたが、ジュネーブという都市のフランスからの割譲、そしてスイスの永世中立と不可侵性をヨーロッパの大国に承認させた人物として、語り継がれています。
ジュネーブのオー・ヴィーヴ広場とオー・ヴィーヴ駅を結ぶピクテ・ドゥ・ロシュモン大通り、トレイユ坂の上に建てられた銅像、ピクテ・ドゥ・ロシュモンの旧邸宅内にある現ランシー市役所など、彼の功績の記憶は現在もジュネーブあちこちに刻まれています。
ピクテ・ドゥ・ロシュモン
“好意を示せば、好意を得る。
心と行動に正義を持って接すれば、それは自分に戻ってくる。
間違っていることに対して間違いだと言うことができれば-つまりいつも非難し、疑い、警戒し合い、軽率に憎むようなことをしなければ、それに相応しい扱いを受ける。
敬意があれば、信頼関係ができた瞬間に全てが容易くなる。それが真の外交だ。”
1816.4.23 友人P.E. ド・フェレンベルグに宛てた手紙より