Pictet Story


ピクテ – 200年の歴史【4】 1909年-1939年

好景気と不景気:ピクテはおよそ60人の従業員を抱える、当時としては規模の大きなプライベート・バンクに成長します。国際舞台にも目を向け、著しく進展する産業高度化の中で事業を拡大していきます。しかし1929年ウォール街の株価大暴落の影響、また政治的混乱による影響を受け、ピクテにとっても厳しい時代となりました。




ギヨーム ピクテ・アンド・シーからピクテ・アンド・シーへ

エルネスト・ピクテの次男であるギヨーム・ピクテ(Guillaume Pictet & Cie)、1860-1926)は文学と科学の両分野を修めた優秀な学生でしたが、家業を継ぐ道を選び銀行家となります。しかし最新の科学的発見への情熱は忘れず、電気とフォトグラフィーの発展に強い関心を持ち続けました。

1889年、29歳で父親のもとでピクテのパートナーとなったギヨームは1909年に父親が亡くなった後、社名をギヨーム ピクテ・アンド・シーに変更、同年ディデイ通り10番地(10, rue Diday)にオフィスを移転しました。

彼のキャリアが終盤に差し掛かる頃、ピクテはおよそ60名の従業員を抱え、当時としては規模の大きなプライベート・バンクに成長しています。ギヨーム・ピクテは著しく進展する産業高度化時代の中で事業を大きく発展させました。



国際舞台に翼を拡げた銀行

ギヨーム・ピクテはスイスの銀行家が米国や南米に幅広いネットワークを築くことの重要性をいち早く認識し、1895年にニューヨーク、サンフランシスコ、そしてロサンゼルスを訪問、1905年に再びアメリカとメキシコを訪問しています。

ギヨームは運用に慎重な顧客が米国への投資で選好するのは鉄道会社発行の社債ばかりであることに気づき、分散投資の観点から電力会社の株式を提案します。1910年にはアメリカの電力会社に投資する金融会社(Société Financière)を設立、初代会長に就任しました。その後、ニューヨークに本部を移し、ポートフォリオの大半を電力関連企業に投資する会社である「アメリカン・ヨーロピアン証券会社(American European Securities Company)」となります。

メキシコから帰国したギヨームは、フランスからの移民家族が設立したメキシコ企業の株式を提案しました。ブラッスリー・モクテスマ(Brasserie Moctezuma)やサン・ラファエル(San Rafael)製紙会社、オリザバ事業会社(Industrial Company of Orizaba)、タバコ会社のエル・ブエン・トノ(El Buen Tono)、そして生地製作会社のサン・イルデフォンソ(San Ildefonso)といった企業です。ギヨームは、メキシコ産業金融会社(Société Financière pour l’ Industrie au Mexique)に関心を示しました。この会社はパリ・オランダ銀行(Banque de Paris et des Pays-Bas)の支援の下に1900年に設立され、後にソパフィン金融産業投資会社(Société de participations financières et industrielles Sopafin)となりました。1942年、メキシコ株は売却しています。この会社とピクテは2002年まで密接なつながりがありました。

2017 年まで「アメロセック(Amerosec)」の名で存在した「アメリカン・ヨーロピアン証券会社」と「メキシコ産業金融会社」は投資信託のパイオニアと言えるでしょう。

ギヨーム・ピクテは当然のことながらブラウン-ボベリ(Brown-Boveri)、フランコ-スイス金融会社(Société Financière Franco-Suisse)や ジュネーブ・ガス工業会社(Compagnie Genevoise de l’Industrie du Gaz)といった、スイス企業の発展にも関心を持ち、また、スイス国立銀行とスイス銀行協会の理事も務めました。ロンドンやニューヨークで育んだ有益な人脈を活用し、1915年から1920年にかけてピクテ銀行を通じて、スイス連邦への3件の大型ドル建て融資交渉を委託されています。



彼の輝かしいキャリアが終盤に近づく頃でも、様々な方面から要職への要請は多く、彼自身も公務に時間と労力を注ぐだけの活力に満ちていました。1924年にはジュネーブ州議員に選出、景気が良いとは決して言えなかった当時のジュネーブ州の財務長官という大役を引き受けます。しかし政治闘争と病により、16ヵ月後にこの世を去ることになります。

ギヨーム・ピクテは、エルネスト、エミール、エイモン・ピクテ(Amon Pictet) の他、ジャック・マリオン(Jaques Marion)、ギュスターヴ・デュナン(Gustave Dunant)、シャルル・ゴーティエ(Charles Gautier)ともパートナーシップを結び経営を行いました。

1909年に父親が亡くなってからも単独で銀行を統率することは考えておらず、ギヨーム・ピクテはジャック・マリオン(1856-1930)を彼のパートナーとして代理人に指名しました。ジャックは16歳の時に実習生として入行、その後58年に及ぶピクテでの就労の間、4世代のパートナーとともに業務を行いました。

1914年、ロンドンに拠点を置く銀行モリス・プレヴォ・アンド・カンパニーからギュスターヴ・デュナン(1880-1933)を迎えました。ギュスターヴはピクテの英国との取引関係の発展に大きな役割を果たします。ギヨーム・ピクテの死後数年、ギュスターヴがシニア・パートナー職を担いました。


「ピクテ・アンド・シー(Pictet & Cie)」の誕生

1926年に銀行名はピクテ・アンド・シー(Pictet & Cie)となり、オフィスをディデイ通り6番地(6, rue Diday)に移転しました。1920年代の激しく変化する景気の荒波の中、従業員60 名ほどの中規模プライベート・バンクであったピクテは、その後半世紀の間で20名のパートナーに率いられ、創立175 周年にあたる1980年には社員数300名を抱えるまでになりました。

ギヨームの長男であるエイモン・ピクテ(1886-1928)が跡を継ぎ、米国、メキシコでの就業経験を経て1910年にピクテ銀行のシニア・エグゼクティブに、1919年にはパートナーとなりました。彼の父親がジュネーブの国務院(Conseil d’ Etat)に推薦されたとき、エイモン自身も一連の政治活動を行っています。エイモンは、ギヨームがジュネーブ州経済再建のために提唱した緊縮政策を支持する政党、経済防衛党(Union de défense économique)の役員会で副会長を務め、またバーゼルのスイス国立保険会社(Compagnie d’ assurance nationale suisse)等複数の企業の取締役も務めていましたが、1928年に42歳で急死、エイモンの従兄弟のアルベール・ピクテ(Albert Pictet)が跡を継ぐこととなりました。



1864年の赤十字設立以来、ジュネーブは人道的な役割を担っていましたが、第一次世界大戦終了後は国際都市としての地位を高めていきます。1920年11月15 日に初の国際連盟の総会が「 改革堂(Salle de la Réformation)」で開催され、また、国際労働機関(ILO)が数ある国際機関の中で初めてジュネーブに本部を置きました。1932年から1934 年にかけての軍縮会議をはじめ、ジュネーブは数々の国際会議の主催都市となっていきます。



暗黒の時代:1929 年の株式市場暴落とジュネーブ銀行の倒産

ジュネーブの国際都市としての第一歩は、第一次世界大戦終戦直後の壊滅的状況と無縁ではありませんでした。ジュネーブ州政府は赤字を漸減させる緊縮政策を打ち出す前に借入金を増やしていました。ジュネーブ州政府と左翼よりの政党である経済防衛党(Union de défenseéconomique)のメンバーであったギヨーム・ピクテは、1924年に860万フラン以上あった財政赤字を、1927年には100万フラン以下に削減することに成功しました。しかし、この称賛すべき彼の実績は、世界経済を大恐慌に陥らせた1929年のウォール街での株価大暴落によって著しく妨げられることになります。1931年にはジュネーブもその影響を受け、時計製造業、機械工場やホテル産業等の従来からの顧客が次第に減っていきました。

この「政治的情熱の時代」と呼ばれる時代は失業と社会的緊張を生み、ジュネーブではレオン・ニコル(Léon Nicole)が率いる社会主義政権が3年間に渡って敷かれました。政治的そして経済的なシンボルであったジュネーブ銀行(Banque de Genève)は、多くのスキャンダルにまみれながら、1931年7月11日に倒産します。



経済的困難、政治的混乱のなかでも、ジュネーブは豊かで文化的な環境を守り続けます。エドゥアール・クラパルデ(Edouard Claparède)は、1912年に心理学と未来科学の教育機関である ルソー研究所(Institut Rousseau)を創設しました。翌年、近代言語学の父と呼ばれたフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)が亡くなりましたが、彼の一般言語学講義(Cours de Linguistique Générale)は言語学の基本概念を定義しています。例えば、言語は、思想を表現するための記号の体系であり、言語の抽象的な体系を指している言語(language)と、「言語を話すという行動に移す」発話(parole)の違いです。この概念は人間科学の他の分野にも影響を与えました。ド・ソシュール家の幾人かがピクテのパートナーに就任しています。




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