Pictet Story


ピクテ – 200年の歴史【6】 1950年-1980年

戦後の好景気:20世紀後半、スイスはバンキング・センターとして発展し特にプライベート・バンカーは目覚しい発展を遂げます。ピクテはグローバルにオフィスを展開、また、IT(情報技術)を早い段階から導入するなどし、グローバル化と業務の効率化を図っていきます。




多様化と大規模な拡張

20 世紀後半、スイスはバンキング・センターとして大いなる発展を見せましたが、特にプライベート・バンカーは目覚しい発展を遂げます。専門的職業としてのプライベート・バンキングは、金融技術と事務処理プロセスの両方の観点で、より国際的で洗練されたものとなり多様性を見せ始めます。とりわけ法律の一層の複雑化にも関わらず、プライベート・バンクは発展し続けました。

第二次世界大戦終戦までのピクテの顧客層は、主にスイスとヨーロッパの個人顧客でしたが、その後、世界中へと広がっていきます。ディデイ通りのオフィスは次第に手狭になり、パートナー・コミッティーでは、ジョルジュ- ファヴォン(Georges-Favon)大通りに新しいビルを建設し、すべての業務を1ヵ所に集中させることが決定されました。建設開始から3年半後の1975年に移転した新オフィスはクラシックな外観と近代的なインフラを融合させた建物でした。



1950年代初頭になると年金基金やその他の機関投資家向けファンドなどが、次第に重要な地位を占めていく新たな顧客層に注目され、またウェルス・マネジメントの分野も再び注目され始めます。1960年代にピクテは機関投資家向けサービスの提供を行ったスイス初のプライベート・バンクのひとつとなりました。

1945年には70人だった社員も、1980年には300人に増え、ピクテはこの35年間に急成長しています。これはスイスの安定した政治・金融や、世界の経済成長の恩恵を受けた結果でもあり、顧客の最大の利益のために全力を尽くす、結束の強い、管理の行き届いたチームの努力もありました。さらに、パートナー達はスイス全域の公共機関同様、ジュネーブに拠点を置く公共機関とも特別な関係を築いており、公職を兼務する者もいました。アルベール・ピクテは1942~1947年に、ヴィクトル・ゴーティエ(Victor Gautier)は1955~1963年に、それぞれジュネーブの代表としてスイス連邦全州議会の議員を務めています。


大手プライベート・バンクの誕生

戦争が過去のものとなりつつあるなか、ピクテは急成長を見せ始めます。20世紀後半の経済成長に伴い、様々な新規事業に取り組みました。1960年代初頭はまだ、個人顧客の資産管理が主業務で部員は3名のアシスタント・バイス・プレジデントと、1名のオフィサーのみで、顧客と会いポートフォリオを管理するのは主にパートナー達が行っていました。売買注文はまだ手書きで、メッセンジャーによって証券取引所の取引デスクに送られていました。ビジネスがさらに拡大すると、4人のアセット・マネージャーが任命されます。プライベート・バンキング分野に入る前には他の分野で実績を残してしたこの4人はそれぞれ約20年間忠誠心を持ちピクテに勤務しました。1950年代以降の目覚ましい経済成長は、プライベート・バンキング分野に前例のない発展をもたらすこととなり、大幅に増えた業務量に対応するために、パートナーはアセット・マネージャーのグループを作ることにしました。

当時の銀行の主要事業であったプライベート・バンキング以外に、機関投資家向け資産運用をはじめ、さまざまな事業が成長していきます。1967年にはピクテの従業員向け企業年金基金(FIPPER) が設立されました。その後10年は、4人のみの機関投資家部門でしたが、この基金の開発とマーケティングに努めるとともに、ピクテが年金基金の管理を任されていたスイス及び国外の機関投資家の対応もしました。創設された「機関投資家向け資産運用」部門は、後にピクテ・アセット・マネジメント(PAM) に改名され現在に至ります。年金給付と社会保障の分野は1980年代に大きく発達したのです。



市場の発展に伴ったもう一つの革新はグローバル・カストディ業務でした。1970年代、機関投資家の資産運用のグローバル化と有価証券管理のIT化、そして銀行ではないために証券保管業務ができない資産運用会社の増加に伴いグローバル・カストディ業務が生まれました。ピクテはカストディ業務においても、1970年代にいくつかの独立系資産運用会社と契約を締結しています。


市場のグローバル化

20世紀後半、金融市場のグローバル化とそれに伴い発展した事業に対応すべくピクテは欧州大陸以外にもオフィスを開設します。まずは調査のために、モロッコのタンジールに、そして次にウルグアイのモンビデオにオフィスを開設しました。

冷戦の渦中にあった1970年代半ばには、欧州での大きな危機発生時に顧客の資産を守るためピクテは北米大陸に拠点を探し始めます。当時モントリオールは優れた通信ネットワークと恵まれた立地条件から、北米大陸における初のオフィスを開くのには理想的な場所であると考え、1974年6月5日にピクテ・モントリオール(Pictet Montreal)は開設されました。冷戦の終盤にはピクテ・モントリオールは資産運用業務に主軸を移し、ピクテ・グループ全体に米国およびカナダでの証券売買サービスを提供できるようになりました。1974年にボストン証券取引所、1984年にはモントリオール証券取引所の会員となりました。また、2000年からはNASDAQに直接アクセスできるようになっています。

1978年、ピクテはバハマ諸島にオフィスを開設しました。バハマ諸島での業務はバハマ諸島に住む多くの国際的な顧客層、そして、中南米(ベネズエラ、コロンビア、ペルー、エクアドル)およびカナダ在住の顧客へのサービスも開始します。1995年にバハマで創設した「ピクテ・オーバーシーズ・トラスト (Pictet Overseas Trust)」は、後にピクテ・グループの主要な信託会社となりました。ピクテは欧州やアジアなどでもグローバルに拡大、2018年には世界各地に27のオフィスを構えています。


情報技術への取組み

1960年代後半からピクテは情報技術(IT)を導入しています。以降大規模な発展を経て、現在も技術の性能を高め続けています。“リアルタイム銀行” というコンセプトのもと、業務遂行の方法に真の革命がもたらされ、何度も同じことを繰り返さなければならなかった事務作業からスタッフは解放され、日々行う業務の処理スピードも格段に上昇しています。 



初めて導入したITシステムは、1秒に2万個の指示を処理することができ、16,000バイトのメモリを持ち、磁気ディスクに5,000万バイトのストレージ容量があるメインフレーム・コンピュータをベースにしたものでした。データ入力にはパンチカードが用いられ、処理結果はハードコピーで印刷されました(助言内容、種々のリスト、残高明細、バリュエーション等)。

最初にITの世界に足を踏み入れてから、様々な技術を取り入れてきましたが、2002年にUnityプロジェクトを立ち上げ、ピクテ・グループ全体のバンキング・システムの技術的また機能的な基本設計概念を根本的に再定義しました。




関連レポート


●当資料はピクテ・ジャパン株式会社が作成した販売用資料であり、金融商品取引法に基づく開示書類ではありません。取得の申込みにあたっては、販売会社よりお渡しする最新の投資信託説明書(交付目論見書)等の内容を必ずご確認の上、ご自身でご判断ください。
●投資信託は、値動きのある有価証券等(外貨建資産に投資する場合は、為替変動リスクもあります)に投資いたしますので、基準価額は変動します。したがって、投資者の皆さまの投資元本が保証されているものではなく、基準価額の下落により、損失を被り、投資元本を割り込むことがあります。
●運用による損益は、すべて投資者の皆さまに帰属します。
●当資料に記載された過去の実績は、将来の運用成果等を示唆あるいは保証するものではありません。
●当資料は信頼できると考えられる情報に基づき作成されていますが、その正確性、完全性、使用目的への適合性を保証するものではありません。
●当資料中に示された情報等は、作成日現在のものであり、事前の連絡なしに変更されることがあります。
●投資信託は預金等ではなく元本および利回りの保証はありません。
●投資信託は、預金や保険契約と異なり、預金保険機構・保険契約者保護機構の保護の対象ではありません。
●登録金融機関でご購入いただいた投資信託は、投資者保護基金の対象とはなりません。
●当資料に掲載されているいかなる情報も、法務、会計、税務、経営、投資その他に係る助言を構成するものではありません。