Pictet Story


ピクテ – 200年の歴史【1】 1805年-1841年

創設期:ピクテの始まりは、1805年7月23日。ジュネーブにて20代の若き銀行家によって設立されました。1805年当時、ジュネーブはフランスの統治下にありましたが、ライプツィヒでのナポレオン敗北後、1815年、スイスの新しい州となります。創設期のピクテは、主に資産管理と為替取引業務を担っていました。




ピクテの起源

1805年7月23日、2名の20代の若き銀行家、ジャコブ-ミッシェル-フランソワ・ド・カンドル(Jacob-Michel-François de Candolle)と、ジャック-アンリ・マレ(Jacques-Henry Mallet) は、他3名のリミテッド・パートナーと共に、ジュネーブにてパートナー契約に調印しました。このパートナー制の会社は幾度かの社名変更を経て、現在に至ります。

「あらゆる物品の取引、年金掛金の集金、商品投機取引の引受」を目的に資本金125,000ポンド(ポンド:当時のジュネーブの通貨)で新会社は設立され、その後間もなく資産管理と為替取引業務に専念する銀行となり、サン・ピエール通り3番地(3,cour Saint-Pierre)にあるド・カンドルの住居にて業務は開始されました。


フランス領下のジュネーブでの銀行設立

ジャコブ-ミッシェル-フランソワ・ド・カンドルと、ジャック-アンリ・マレの2名が、後のバンク・ピクテ・アンド・シー・エス・エイ(Banque Pictet and Cie SA) となる大胆なベンチャー事業に着手した当時のジュネーブではまだフランス革命暦が使用されており、銀行の設立日はフランス革命暦13年テルミドール(熱月)5日です。ジュネーブがフランス領となる条約が結ばれたのは、フランス革命暦6年フロレアル(花月)7日(1798年4月26日)のことでしたので、旧ジュネーブ共和国の歴史に密接に関わるこの2名の銀行員は「フランス生まれ」でした。

フランス占領下のジュネーブは新たにレマン地方の行政の中心地となりましたが、それは困難な時代の幕開けでもありました。1785 年には85,000 個だった時計の生産量は1801 年から1803 年には30%減の60,000 個に減少しています。フランス政権は保護貿易主義の立場をとり、ジュネーブ経済を守るために商工会議所や商品市場、通商・芸術・農業の評議会などを設立しました。

ジャコブ- ミッシェル- フランソワ・ド・カンドル(1778-1841)は著名な植物学者であるオーギュスタン・ピラミュ・ド・カンドル(Augustin Pyramus de Candolle)の兄弟で、プライベート・バンカーであると同時に様々な公職にも就いていました。彼のパートナーであったジャック-アンリ・マレ(1779-1807)は銀行設立のわずか2 年後、重要な役割を果たす機会もないまま亡くなりました。その後、彼の兄、ジャン-ルイ-エティエンヌ・マレ(Jean-Louis-Etienne Mallet、1775-1861) は、ポール・マルティン(Paul Martin、1766-1837)とジャン-ルイ・ファルケット(Jean-Louis Falquet、1768-1842)とともにマネージング・パートナーとなりました。

1807年、ジャック-アンリ・マレの死後、ジャコブ-ミッシェル- フランソワ・ド・カンドルの友人であるシャルル・テュレッティーニ-ネッカー(CharlesTurrettini-Necker、1782-1857)がパートナーに就任しました。

シャルルはマネージング・パートナーとリミテッド・パートナーを兼務し、銀行の名は1807年に ド・カンドル、テュレッティーニ・アンド・シー、その後1812年にJ. ド・カンドル・アンド・シー(J. de Candolle & Cie)に、そして1819年には再びド・カンドル、テュレッティーニ・アンド・シーに変更されました。オフィスはシテ通り26番地(26, rue de la Cité)に移転、1856年まで拠点としています。



両替商、金商人、そして資産運用

「両替商」と「金商人」という、それまでのビジネスとは別に、当時のピクテは顧客に代わり商業手形の取引や保管、証券の売買、裁定取引、収益の現金化、証券の償還などを行い、さらには、資本市場において変動ローンの取り扱いを開始します。当時、ジュネーブ証券取引所は存在せず(19世紀後半に設立)、認可を受けたブローカーが毎日銀行を渡り歩き、取引を執行ました。

ド・カンドル、テュレッティーニ・アンド・シーは早い段階から保険業務にも携わり、1821年にはパリに拠点を置く生命保険会社(Compagnie Générale d’ assurances sur la vie)のスイス代理店となりました。

1838年の顧客記録には、従来の債券と株式に加えて、ウィーンやナポリの宝くじやトンチン年金(アイルランド、トリノ、オルレアン)といった、より独創的な投資が見られます。債券には、フランス国債2 1⁄2%、オランダ国債 2 1⁄2%、パリ市債4%、ロシア国債5%などがありました。株式のなかには、ヨーロッパで最初に建設された吊橋の一つであるパキ(Pâquis)の吊橋や船舶のル・アーヴルのジョルジュ(George)やオランダの蒸気船ロッテルダム(Rotterdam)の資金調達のために発行されたものもあります。



ライプツィヒでのナポレオン敗北(1813年10月18~19日)により、スイスはフランス軍から解放されます。フランス帝国は崩壊し、ジュネーブはスイス連邦に加盟するという、かねてからの構想を実現できました。1815年5月19日、チューリッヒ議会で再統合の決議に調印、ジュネーブはスイスの新しい州となりました。

27年続いた王政復古の時代はジュネーブに繁栄をもたらし、時計製造業が回復、1820年の生産個数64,000個から1845年には100,000個に増加しました。

王政復古によりジュネーブにいくつもの新しい組織が現れました。いまだ生々しく残る革命とフランス占領下の軍による検閲の記憶を根絶しようと物理、自然史、歴史、考古学、医学、読書などの組織がこの時期に始まっています。

レマン湖の入り江の岸とローヌ川沿いに新しい埠頭が建設され、産業革命の最初の兆しである外輪蒸気船を目にすることができました。1823年になると、ジュネーブからコペやニヨン、ロールやウシー(ローザンヌ)へ船で湖上の旅ができるようにもなります。




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