Pictet Story


ジュネーブがスイスの州になるとき Ⅴ

ピクテ家の1人、シャルル・ピクテ・ド・ロシュモンは、ピクテ銀行の経営に直接関わることはありませんでしたが、ジュネーブという都市、そしてスイスの中立性をヨーロッパの大国に承認させた人物として、語り継がれています。




第2回パリ会議での決定的な成功

この間、1815年5月19日にジュネーブはスイスに加盟しました。これによりピクテ・ド・ロシュモンは、パリにおいて新たな州と同時にスイス連邦を代表することになりました。よって今度はより強固な外交的地位とより優れた任務命令を受け、再びパリを訪れたのでした。さらに、タレーランは失脚しフランス代表としてピクテの前に現われたのは、オデッサの羊牧場を通して知り合ったリシュリュー公爵でした。1815年11月20日のパリ条約の締結により、ピクテはフランスから6つのコミューン(プレニーとヴェルソワを含む)を獲得し、これによりジュネーブとスイスは隣接した境界線を持つことができました。ペイ・ド・ジェクスはフランス領のまま残りましたが、経済的に州と連携する無関税地域となりました。

ピクテ・ド・ロシュモンの決定的な成功はスイス連邦にもたらされました。彼は、彼自身が作成した正式宣言の中で、スイスの中立性と不可侵性は「ヨーロッパ全体の真の利益に合致する」ことをヨーロッパの大国に認めさせたのです。

1816年のトリノ会議では、ピクテ・ド・ロシュモンはウィーンでの決定の遂行、特にサヴォワ地域とレマン湖左岸(エルマンスまでの湖岸)のコミューンの土地の割譲の実現に力を注ぎます。また1816年3月16日のトリノ条約では、スイスの中立的地位が強化されました。

外交官としての仕事を終えたピクテ・ド・ロシュモンは、 1816年夏には早々と鋤と羊の待つ田舎へ戻り、その後は公的世界には稀にしか顔を出すことはなく、1824年にランシーでその生涯を閉じました。



シャルル・ピクテ・ド・ロシュモンに宛てた連邦議会の請願書
1816年7月18日 押印付き文書 60×43 cm ジュネーブ古文書資料
館所蔵 家系アーカイブ第1組 ピクテ・ド・ロシュモン第15番



1814年のパリ会議でピクテ・ド・ロシュモンが手書きで注釈を加え使用したジュネーブ周辺地図 
56×77cm ピクテ家アーカイブ財団所蔵


次回はシャルル・ド・ロシュモンの活躍により、スイス、そしてジュネーブにもたらされたものについてご紹介します。



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