Pictet Story


ピクテ – 200年の歴史【2】 1841年-1878年

新たな時代:1841年、ピクテ家の一族が初めて銀行の経営に加わり、その時から銀行に「ピクテ(Pictet)」という名が付き現在に至ります。1850年からスイス、ヨーロッパ、そして北米の有価証券を顧客に推奨しはじめます。




19世紀に足跡を残す:エドゥアール・ピクテ(Edouard Pictet、1813-1878)

1841年、ピクテ家の一族が初めて銀行の経営に加わり銀行には「ピクテ(Pictet)」という名が付き現在に至ります。ジャコブ-ミッシェル-フランソワ・ド・カンドルには後継ぎとなる息子がいなかったため、亡くなる少し前に妻の甥であるエドゥアール・ピクテ(1813-1878)に跡継ぎを頼み、エドゥアール・ピクテは1841年にパートナーとなります。銀行の名はテュレッティーニ、ピクテ・アンド・シーとなり、その名は1848年まで続きます。



エドゥアール・ピクテは37年という長きに渡りシャルル・テュレッティーニ(Charles Turrettini)、フランソワ・ジラール( François Girard ) 、 アル フ ォン ス ・ テュレッティーニ(Alphonse Turrettini)、そしてパートナーとしての後半近くにはエルネスト・ピクテ(Ernest Pictet)、エミール・ピクテ(Emile Pictet)と共に経営を担います。

銀行名は 1848年から 1856 年はエドゥ アール・ ピクテ(Edouard Pictet)、その後1878年までエドゥアール・ピクテ・アンド・シー(Edouard Pictet & Cie)となり、オフィスは1856年にコラトリー通り8番地(8, rue de la Corraterie)へ移転します。

エドゥアール・ピクテは、プライベート・バンカーとしての仕事に加え、ピクテ家の跡を継ぎ、ケス・デパーニュ(Caisse d’ Epargne、かつて存在したフランスの大手金融)の役員や、商業裁判所での裁判官を歴任します。30歳の時に結婚したアメリ・プレヴォ(Amélie Prevost)の父親は、ロンドンの銀行であるモリス・プレヴォ・アンド・カンパニー(Morris Prevost and Co.)で長年パートナーを務めた人物でした。1845年生まれの一人息子、エミール・ピクテは1875年にピクテのパートナーとなり、1909年に亡くなるまでその職を務めました。彼は父親の意志を受け継ぎ、当時のピクテを実質的に主導していたパートナーであるエルネスト・ピクテを陰で支え続けました。

初めての鉄道建設はヨーロッパの風景を様変わりさせました。イタリアではカヴール(Cavour)伯爵が2つの鉄道建設を計画、うちひとつがトリノとアレッサンドリアを結ぶ鉄道で、その予算は当時としては大金の3500万スイスフランに上り、ピエモンテの人々はジュネーブのプライベート・バンカーのグループを通して資金を集めるこ と を期待し、「クァトゥール(Quatuor)」という銀行家の企業連合を設立しました。企業連合はヘンチ&シー(Hentsch & Cie)、ロンバー・オーディエ・アンド・シー(Lombard Odier & Cie)、テュレッティーニ、ピクテ・アンド・シー、ルイーズ・ピクテ(Louise Pictet)の4行で構成されていました。

このプロジェクトは実を結びませんでしたが、当時のジュネーブの主要なプライベート・バンカー同士を強い絆で結びつけました。協調の精神の下、共通する事業利益を守るために、ジュネーブのプライベート・バンカーは1872年に金融協会(Financial Association)を設立しています。続いて1890年にはジュネーブ金融組合(Financial Union of Geneva)を、その後1933年には今日も存続するジュネーブ・プライベート ・バンカーズ協会(Geneva Private Bankers’Association)を設立しました。


スイス鉄道から北米債券まで

1850年から1870年にかけて、ピクテは顧客にスイス、ヨーロッパ、そして北米の有価証券投資の機会を提供、幅広い企業の債券や株式を推奨しています。その中にはスイス鉄道会社(Société générale deschemins de fer suisses)、フランス- スイス鉄道会社(Compagnie franco-suisse des chemins de fer ) 、 フラン ス再保険会社( Compagnie française de réassurance)、ローザンヌの保険会社(La Suisse)、シレジアの亜鉛鉱山、 サンゴバン・ガラス工場(Saint-Gobain Glassworks)、そして、アメリカの鉄道(オハイオ-ミシシッピ、オハイオ-ペンシルベニア等)の資金調達ために発行された債券もあります。

1857年、ピクテは海運業にも関心を示し、パートナー達と何名かの個人出資者と共にフォルモザ(Formosa)というトウモロコシや石炭といった物品を運ぶ商業船の所有権の過半数を取得します。

スイス初の鉄道建設は1844年ですが、ジュネーブは鉄道網開発に若干手間取り、1858年3月16日になりようやくリヨンとジュネーブ間が開通、その後ヴェルソワやセリニーにまで延長されモルジュ-イヴェルドン線に繋がりました。ジュネーブ-リヨン線の建設はパリ在住のジュネーブの銀行家フランソワ・バルトロニ(François Bartholoni)によるもので、ちなみにこの人物はジュネーブ音楽院も建設しました。



関連レポート


●当資料はピクテ・ジャパン株式会社が作成した販売用資料であり、金融商品取引法に基づく開示書類ではありません。取得の申込みにあたっては、販売会社よりお渡しする最新の投資信託説明書(交付目論見書)等の内容を必ずご確認の上、ご自身でご判断ください。
●投資信託は、値動きのある有価証券等(外貨建資産に投資する場合は、為替変動リスクもあります)に投資いたしますので、基準価額は変動します。したがって、投資者の皆さまの投資元本が保証されているものではなく、基準価額の下落により、損失を被り、投資元本を割り込むことがあります。
●運用による損益は、すべて投資者の皆さまに帰属します。
●当資料に記載された過去の実績は、将来の運用成果等を示唆あるいは保証するものではありません。
●当資料は信頼できると考えられる情報に基づき作成されていますが、その正確性、完全性、使用目的への適合性を保証するものではありません。
●当資料中に示された情報等は、作成日現在のものであり、事前の連絡なしに変更されることがあります。
●投資信託は預金等ではなく元本および利回りの保証はありません。
●投資信託は、預金や保険契約と異なり、預金保険機構・保険契約者保護機構の保護の対象ではありません。
●登録金融機関でご購入いただいた投資信託は、投資者保護基金の対象とはなりません。
●当資料に掲載されているいかなる情報も、法務、会計、税務、経営、投資その他に係る助言を構成するものではありません。